日本のHIV/エイズの予防やケアの取り組みのベースとなる「エイズ予防指針」(厚生労働省のサイトより)というものがあります。そのなかで、薬物の使用がある人のコミュニティは、「個別施策層」としてそのコミュニティに特化した適切な取り組みが必要と位置付けられています(「薬物乱用・依存者」と表記)。この予防指針は数年に一度アップデートされているのですが、今年がそのタイミングということで、ハームリダクションの視点からアップデートの際にはこうしてほしい、と厚生労働省に要望書を提出しました。
要望書の最初のポイントは当事者の人権尊重です(要望書の内容は下記に掲載しています)。
このエイズ予防指針、じつは人権への尊重を訴えているものでもあります。HIV/エイズへの差別・偏見が予防やケアを難しくさせている、そのことにずっと直面して取り組んできた歴史があるからでしょう。
その視点に基づく予防指針だからこそ、薬物の使用がある当事者への人権も尊重してほしいです。それなくしてはHIV/エイズの流行終結は実現しないということが国際的に訴えられていますし、日本も同様と考えています。
具体的な要望は「薬物乱用・依存者」を「薬物を使用することがある人」(またはそれに近い表現)に変更してほしいというものです。この表現は、NYANが連帯する当事者と話し合いながら選びました。いまでは「薬物使用者」・「ドラッグユーザー」という表現も見られることがありますが、そうした表現も「乱用者」に比べればマイルドになっているかもしれませんが、差別や偏見を撤廃していくことにはつながらず、むしろ助長するものと捉えています。それは国際的にも同様で、Drug User(薬物使用者)という表現は差別的な表現として認識され、People who Use Drugs(薬物を使用することがある人)が選択されています。
要望書のもうひとつのポイントは、当事者コミュニティへの尊重です。
予防指針の個別施策層に薬物を使用することがある人のコミュニティが挙げられていることで、この個別施策層を対象とした研究がなされてきました。今後、予防指針に基づいてその施策層への研究が実施されていくのであれば、薬物を使用することがある当事者が、これこそコミュニティの健康と安全のための研究と賛同できる内容になってほしいと願います。
たとえば、Chemsex(ケムセックス)をすることがある人のコミュニティにおいて、(どうしたら薬物依存症の回復に役立つかではなくて)性行為の際のHIVの感染予防をはじめ、薬物を使用することがある状況で二次的なハーム(ダメージやリスクなど)の軽減に役立つような研究があってほしい、そういう思いがあります。
NYANは要望書を2月に厚生労働省に提出しました。そして先日、予防指針を所管する同省の感染症対策課エイズ対策推進室の方々と面談できる機会がありましたので、あらためて要望をお伝えしました。今後は専門家等との会議を経て予防指針の見直し案が作成され、夏頃にはパブリックコメントを募りまとめられていく流れになるようです。
要望書の内容は以下のとおりです。
日本政府への要望:薬物使用がある当事者の人権を尊重した指針の改正を
国連合同エイズ計画(UNAIDS)が2030年までにエイズ流行終結を目指す国際的な目標を掲げるなか、日本国内では現在、「後天性免疫不全症候群に関する特定感染症予防指針」(以下、エイズ予防指針)を改正する段階にきていると理解しています。
エイズ予防指針では個別施策層のひとつに「薬物乱用・依存者」が挙げられています。私たちはこの個別施策層の意味するところは、生活のなかで薬物を使用することがある当事者コミュニティにおいて、HIV /エイズの感染予防及びケアの向上を目指すための対応を検討することと捉えています。そこで、まず薬物を使用することがある当事者(People who Use Drugs)を取り巻く日本社会の状況を理解することが大切になると考えます。
日本の薬物対策は、薬物の乱用を防止するためのものとなっています1)。この薬物乱用防止対策のなかでは、薬物使用がある当事者は「薬物乱用者」と表記され、政府は「薬物汚染のない健全な社会の実現」のために乱用者を排除しようと挑む姿勢を打ち出しています2)。薬物乱用者への具体的な対策の主軸として掲げられているのは、再乱用防止のため<①薬物依存症者等への医療提供体制の強化>と<②刑事司法関係機関等が連携する指導・支援の推進>になっています3)。
一方で、当事者が置かれている現状を見てみますと、薬物の使用スタイルは幅広く、覚醒剤や大麻、ラッシュなどの使用もあれば、市販薬・処方薬・個人輸入薬などの医療目的外の使用もあります。使用することがあっても薬物依存症に該当しない当事者や、再乱用防止のための依存症治療や回復支援が馴染まない、または適していない当事者もいます。また、使用が違法とならない薬物もあれば、違法であっても逮捕等されなければ刑事司法は関与しません。つまり現実的には対策がカバーするのは「薬物乱用者」全体ではなく部分的であると整理できます4)。
薬物使用の背景のひとつには、複合的で社会的な(個人レベルじゃない)問題が深く影響している場合があります。そしてそれはすぐに解決したり消えたりしない場合も多いでしょう。薬物を使用することで、いまを生き延びようとしていると、当事者から教えてもらいます5)。そのような状況の当事者には再乱用防止ではなく、少しでも安全に使用できる健康教育は実用的で役立ちますし、結果的に命を守れる可能性が高まります。同時にこのような健康教育は薬物使用の背景に関係なく、当事者コミュニティ全体に役立つものにもなります。健康教育のなかには薬物を使用するなかでHIV/エイズに感染することの予防やその治療なども含まれます6)。
こうした健康教育的アプローチは、薬物使用がある当事者コミュニティのなかで豊かに育っていくことを私たちは活動を通して実感しています。そこでは薬物の使用がある個人として尊重されます。個人が薬物の使用をとめたい、薬物依存症から回復したいと願うことは尊重されるべきことですが、社会がそれをすべての当事者にあてはめようとすると、当事者のための健康教育というアプローチの発展は抑制されます。このようなアプローチは当事者が主導する動きのなかでこそ発展できるものと考えます。
「ハームリダクション東京」は秘匿性の高いオンライン空間にアウトリーチすることで、さまざまな当事者と出会ってきました7)。再乱用防止のための薬物依存症の治療や回復支援・アディクション支援や、刑事司法関係機関等と連携する支援には自分が馴染まなかった、自分のためのものではないと感じる当事者とも多く出会います。当事者を薬物乱用者として排除し、あるいは薬物依存症者として治療を押し付けたりしようとする社会の向き合い方は、当事者への偏見(スティグマ)を生じさせそして普及させていき、その偏見に当事者らは苦しんでいます。生活のうえでさまざまな困難が生じたときでも、社会の偏見により当事者は安心・安全にSOSをあげることができず、アンダーグラウンドに避難することになります。当事者を尊重してアプローチすれば、HIV/エイズの感染予防や治療がそのコミュニティで身近なトピックであると教えてもらうことができます。
そのコミュニティを個別施策層として位置付け、コミュニティ主導で対策を検討していくことは、日本のHIV/エイズの流行終結のために有意義なことと捉えています。しかしながら、いまはまだ当事者の声が薬物政策や治療・支援などの現場で、そしてHIV/エイズ対策や支援の現場に十分に届いていないことを痛感しています。そこで私たちは日本政府に以下のことを要望します。
個別施策層のなかで、「薬物乱用・依存者」という表現は「薬物を使用することがある人」という表現、あるいはそれに近いものにしていただきたい
「薬物乱用」という表現は、ルール違反の行為という意味で用いられています8)。エイズ予防指針のもと、当事者コミュニティにおいてHIV /エイズの感染予防及びケアの向上を目指すのであれば、当事者を審判する姿勢ではなく、当事者コミュニティを尊重する姿勢が必須であると考えます。乱用者という表記の選択は、真逆な向き合い方でありHIV /エイズの予防及びケアの向上は実現困難となるでしょう。
また、「依存」があるかどうかではなく、「使用」があると捉えることが妥当と考えます。国際的にも薬物使用がある人(People who Use Drugs)と表現されており9)、日本でも違いはないはずです。
当事者を尊重し、当事者コミュニティと連帯する体制を構築していただきたい
HIV /エイズの感染予防及びケアの向上のために、薬物の使用をやめるかどうかではなく、薬物の使用がある人たちが、使用行為や使用したうえでの性行為などでHIVに感染することを予防したり、薬物を使用することがある暮らしのなかでHIV/エイズのケアを受けることができるようになる、そうした関わり方が必要であり現実的と考えます。当事者への偏見(スティグマ)が強い社会であるほど、薬物の使用がある当事者コミュニティが主導し、当事者を中心とした政策のデザインが求められるでしょう。例えば当事者の実態などを研究するという取組においても、当事者主導で当事者コミュニティの健康と安全のために実施されるべきです。
エイズ流行終結を実現するには、こうした現実的な対応が必要であると国際的にアドボケイトされています10)が、それは日本も同様です。しかしながら、現在の日本では強い偏見のため当事者コミュニティが直接声をあげることは非常に困難です。社会的な偏見に晒されていることに対する理解を深め、配慮しながら丁寧に当事者コミュニティと連帯する体制を構築することが必須であると考えます。
参考資料
1) 薬物乱用対策推進会議は令和5年8月に「第六次薬物乱用防止五か年戦略」を発表しました。
https://www.mhlw.go.jp/content/11120000/000339984.pdf
2) 厚生労働省 地方厚生局 麻薬取締部のウェブサイト内の「使命と役割」では、“乱用者を検挙して排除し、「薬物汚染のない健全な社会の実現」という責務を果たすため、日々薬物犯罪に挑み続けています”と表記されています。
https://www.ncd.mhlw.go.jp/shimei.html
3) 1)の「目標2 薬物乱用者に対する適切な治療と効果的な社会復帰支援による再乱用防止」に掲げられている(1)及び(2)(p.13-p.16)
4) 1)の「目標2 薬物乱用者に対する適切な治療と効果的な社会復帰支援による再乱用防止」(p.13)の冒頭に「薬物乱用者の中には、犯罪をした者であると同時に、薬物依存症の患者である者も含まれる」と記述されています。ただし、薬物乱用者の中でどれくらいの割合を占めるかは明記されていません。
5) 「ハームリダクション東京 2023年活動レポート」内の「どうして伴走を大切にするのか(p.7)」でまとめています。
6) 注射器具の消毒や薬物を使用するなかでのセーファーセックスなどの健康教育があります。日本薬物政策アドボカシーネットワークは「コロナとセーファーセックスとハームリダクション」というテーマで2020年9月に講演をしました(akta Talk Show オンラインイベント 『最近セックス、どう?』)。
https://nyan-jp.net/covid-safersex-harmreduction
7) ハームリダクション東京が提供するチャットサービスでは、2022年度で231人と2,377回のチャットをしており、そのうち91%が当事者とのチャットでした。これは現在の日本では本当に稀有なことと捉えています。このサービスが当事者にとって安心・安全に話せる場所(シェルター)として機能できていると捉えています。「ハームリダクション東京 2022年活動レポート」」及び「ハームリダクション東京 2023年活動レポート」により詳しい情報が掲載されています。
8) 厚生労働省「薬物乱用防止読本 健康に生きようパート37」内「薬物乱用とは」(p.4)では“薬物乱用=決められたルールを守らないで、薬物を使用すること”と説明されています。
https://www.mhlw.go.jp/content/11120000/001184455.pdf
9) 国連合同エイズ計画(UNAIDS)の「HIV AND PEOPLE WHO USE DRUGS – HUMAN RIGHTS FACT SHEET SERIES 2021」や国連薬物・犯罪事務所(UNODC)の「ENDING AIDS BY 2030 – FOR AND WITH PEOPLE WHO USE DRUGS」などで、当事者はPeople who use drugsと表記されています。
10) 国連合同エイズ計画(UNAIDS)の「WORLD AIDS DAY REPORT|2023 LET COMMUNITIES LEAD」にて、当事者コミュニティが主導して、当事者が中心となり課題を解決していくことが提唱されています。
https://www.unaids.org/sites/default/files/media_asset/2023WADreport-summary_en.pdf